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富田砕花(とみた さいか, 1890-1984)

 詩人。岩手県盛岡市出身。12歳で上京し、日本大学殖民科を卒業して会計検査院に入る。

 同郷の石川啄木(1886-1912)の影響を受け、初めは歌人を志したが後に詩作へ転じる。詩作を始めた頃は浪漫派に属したが、次第に大衆派への傾斜が見られる。大正期は主にウォルト・ホイットマン(1819-1892)やエドワード・カーペンター(1844-1929)ら英米の詩人の翻訳で知られた。

 1921年に兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)へ転居し、終生を過ごした。以後、富田にとって“兵庫県”は生涯を懸けて取り組むライフワークとも言える課題となり『歌風土記 兵庫県』(1951年)や『兵庫讃歌』(1971年)は代表作の一つとなっている。県内の校歌や自治体歌の制定・審査にも積極的に取り組み、官選第32代/民選初代の岸田幸雄知事が提唱し1947年に制定された『兵庫県民歌』もその例外ではなかった。翌1948年には第1回兵庫県文化賞を受賞しており、現在もなお「兵庫県文化の父」として尊敬されている。

『兵庫県民歌』が後年に県から存在を否定されていることについては、神戸新聞の記事で「なぜか、放りっぱなしになっちゃって…」と悔しさをにじませている。

 

 芦屋市宮川町の旧居(富田の以前には谷崎潤一郎が居住していた)は現存し、記念館となっている。また、近接する芦屋市立美術博物館には没後に遺族から芦屋市へ寄贈された富田の旧蔵資料が保管されており、1994年に芦屋市教育委員会が『富田砕花資料目録』全4集を刊行している。この目録の第3集75ページには「県民歌 選評」「〃(補作)」と題する資料の存在が明記されている。

《リンク》

 

 盛岡の先人たち 第100回:富田砕花(盛岡市)

 富田砕花旧居(芦屋市)

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