
『兵庫県民歌』の記録と記憶
1947年に制定された『兵庫県民歌』はなぜ歴史から抹消されたのか
『兵庫県民歌』関連年表
【凡例】
黒は『兵庫県民歌』やその他の県内の自治体歌・愛唱歌に関する出来事。
青はそれ以外の兵庫県に関する重要な出来事。
緑は兵庫県以外の都道府県民歌や自治体歌、その他の愛唱歌に関する出来事。
1868年
(慶応4年/
明治元年)
7月12日(旧暦5月23日) 廃藩置県により兵庫県(第1次)成立。県域は摂津国の大阪城下を除いた地域で、兵庫城跡(現在の神戸市兵庫区中之島)の勤番所に初代県庁舎を置き伊藤博文が初代知事に任命される。4ヶ月後には坂本村(現在の神戸市中央区橘通、神戸地方裁判所所在地)へ県庁舎を移転。
1871年
(明治4年)
摂津国の旧豊崎県から編入した地域のうち川辺郡以外の7郡を数回に分けて大阪府へ移譲し、川辺・武庫・有馬・菟原・八部の5郡を県域とする第2次兵庫県が成立。
1876年
(明治9年)
元出石藩士で内務省地理局長の桜井勉が内務卿の大久保利通に進言した案により飾磨県(旧播磨国)全域と名東県東部(淡路島)、豊岡県のうち但馬国全域と丹波国西部の2郡(多紀・氷上)が編入され第3次兵庫県が成立。これにより現在の県域がほぼ確定する。
1887年
(明治20年)
12月29日 信時潔(出生名・吉岡潔)、大阪市に生まれる。
4月24日 阪神教育事件。夕刻、岸田が軍政部の命令に基づき発令した朝鮮学校閉鎖令に対して命令の撤回を求めるデモ隊が暴徒化して県庁舎に乱入、岸田を知事室に監禁して命令の即時撤回や検挙者の釈放を強要。同日夜、神戸市全域に非常事態宣言が発令され進駐軍の憲兵らが県庁舎に突入して岸田を救出、直ちに「暴力的手段で強要された誓約は無効」とする声明が発表される。
1948年
(昭和23年)
4月28日 サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の独立が回復される。信時作曲の記念歌『日本のあさあけ』(作詞:斎藤茂吉)が作られた。
兵庫県では「講和記念県民自立運動」と題する各種の記念事業が行われ、秋に「県民自立の歌」として『北は虹たつ』(作詞:植木いはを、作曲:大沢寿人)が作成される。
1952年
(昭和27年)
8月5日 1日に市制を施行した川西市の市歌と市章の審査結果が発表され、市歌部門では野口の応募作が採用される。作曲は宝塚歌劇団理事の酒井協。
12月12日 前副知事が県庁内の裏金疑惑を告発したことに端を発する出直し知事選挙が行われ、岸田が落選する。当選したのは社会党が推薦した前尼崎市長の阪本勝で、史上初にして唯一の革新県政が樹立された。
1954年
(昭和29年)
第11回兵庫国体開催。この当時は開会式に県旗を掲揚して県民歌を演奏する慣習は無かったが、開会式では『兵庫県民歌』でなくテーマソングとして阪本が富田砕花と合作した『国体賛歌』が演奏される。作曲は酒井協。
1956年
(昭和31年)
6月10日 現在の県庁舎1号館落成を記念して県旗が制定される。
同時期に岩手県と三重県も県庁舎落成を記念して県章・県旗(両県とも兵庫県と異なりデザイン共通)と県民歌の両方を制定しているが、兵庫県が県旗しか制定しなかったのはもはや演奏実態が無くなっていたとは言え「17年前に県民歌を制定した」記憶が残っていたからではないかと考えられる。
1964年
(昭和39年)
長野県師範学校で地理唱歌として『信濃の国』(作詞:浅井洌、作曲:北村季晴)が作成される。県全域で幅広く愛唱され、戦前は『秋田県民歌』(作詞:倉田政嗣、補作:高野辰之、作曲:成田為三)および山形県の『最上川』(作詞:昭和天皇御製、作曲:島崎赤太郎)と並ぶ“三大県民歌”と称されていた。
1893年
(明治26年)
2月24日 岸田幸雄、京都府に生まれる。
1900年
(明治33年)
1901年
(明治34年)
東京の女学書院が『兵庫県地理唱歌』全158番(作詞:中村秋香、作曲者不詳)を刊行する。