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 1906年(明治39年)4月22日、長崎県佐世保市に生まれる。光月尋常小学校(光園小学校を経て現在の佐世保市立祇園小学校に統合)在学中に家族全員で大阪府西成郡勝間村(現在の大阪市西成区玉出)へ転居した。玉出第二尋常小学校(現在の大阪市立岸里小学校)を卒業後、苦しい家計を助けるため電球製作所、造船所の使い走り、木管工場の見習、新聞配達など職を転々としながら独学で教員を目指していた。

 

 当時の通信教育は現在のような添削指導式のものでなく、戦後に“憲政の神様”と呼ばれる尾崎行雄(愕堂)が主宰していた大日本国民中学会のものを始め著名な教授陣の講義録を購入して自ら読み込む手法が中心であった。夜間は天王寺の大阪英語学校に通い、週末には礼拝で教会を訪れるアメリカ人を相手にしながら語学力に磨きをかけた。その甲斐あって1929年(昭和3年)、教員採用試験に合格し兵庫県の川辺郡長尾尋常小学校(現在の宝塚市立長尾小学校)に代用教員として採用される。

 

野口 猛(のぐち たけし, 1906-1972)

 念願叶って教員となってからは池田師範学校附属小学校(現在の大阪教育大学附属池田小学校)の中尾明磨が主宰する「生活綴方研究会」に参加し、鈴木三重吉主宰の児童誌『赤い鳥』に投稿したり北原白秋主宰の『多磨』同人となり白秋から短歌の指導を受けたりしていた。なお『兵庫県民歌』の翌1948年(昭和23年)に制定された『鹿児島県民の歌』で入選した坂口利雄(1910-1979)も野口と同時期の多磨同人である。

 

 川辺郡宝塚尋常小学校(現在の宝塚市立宝塚小学校)、有馬郡三田国民学校(現在の三田市立三田小学校)訓導を経て有馬郡生瀬国民学校(現在の西宮市立生瀬小学校)教員となり、1942年(昭和17年)には神戸新聞社の後援で相生市が募集した『相生市歌』で応募作が佳作(三等一席)に入賞している。

 1947年(昭和22年)2月、兵庫県が岸田幸雄知事の提唱で募集した『兵庫県民歌』で応募作が一等入選となる。5月8日に親和高等女学校講堂で開催された発表音楽会では審査委員の富田砕花から開口一番「白秋さんのお弟子ですね」と声を掛けられた。

 

 1954年(昭和29年)、児童数増加のため学年主任を務めていた尼崎市立水堂小学校から分離して開校された七松小学校の校長に就任し、同校の校歌を作詞した。この年の4月14日付『教育タイムス』1面のコラム「人物五線譜」では座右の銘として「進みつつある者のみがよく人を導く」を挙げている。同年8月、この年に市制施行した川西市が募集した『川西市歌』で入選。しかし、尼崎で校長職に在った時期は教育委員会と現場の教員の軋轢が絶えない状況に苦慮することが多く、自ら申し出て川西市立多田小学校へ転任する(写真は多田小学校校長在職時の1962年頃)。

 1964年3月に多田小学校校長を定年退職した後は園田学園の英語教諭となり同学園の生徒歌、また尼崎市立園田小学校園和小学校大島小学校小園小学校などの校歌を作詞した。

 

 1972年(昭和47年)5月3日、急性骨髄性白血病のため伊丹市の近畿中央病院で逝去。享年67(満66歳没)。奇しくもこの日は日本国憲法施行、そして『兵庫県民歌』が県主催の憲法施行記念祝典で初演奏されてから25年目の節目に当たる日であった。

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