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 昭和時代前・中期の作曲家。1887年12月29日、大阪市北区で津山藩士から外交官を経て日本基督教会牧師に転じた吉岡弘毅(1847-1932)の三男として出生。10歳の時に大阪北教会の長老であった信時義政の養子となる。

 旧制市岡中学校(現在の大阪府立市岡高等学校)を卒業後、東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)器楽部へ進み、卒業後は同校の助教授となり作曲部の創設に当たった。

 1920~22年にわたるヨーロッパ留学では主に作曲技法とチェロを学ぶ。尊敬する作曲家としてJ・S・バッハ(1685-1750)の名前を挙げており、現代音楽に通じながらも一貫してドイツ古典・ロマン主義を作風の土台としていた。

 

 今なお代表作として挙げられるのは1937年に社団法人日本放送協会(NHKの前身)がラジオ番組『国民歌謡』の一曲として作曲を依頼した「海ゆかば」と1940年の皇紀二千六百年記念曲「海道東征」であり、戦後も長らくこの時期の大時代的なイメージで語られることが多かった。この時代の作品(特に「海ゆかば」)が軍国主義のプロパガンダとして活用されたことに対する悔恨から戦後は寡作になったと言われているが、実際は戦後も校歌や自治体歌を中心に精力的な作曲活動を行っている。戦後の代表曲は1947年5月3日(「兵庫県民歌」の初演奏と同日)に皇居前広場で開催された新憲法施行記念祝典において演奏された国民歌「われらの日本」(作詞:土岐善麿)および1952年のサンフランシスコ講和条約発効記念歌「日本のあさあけ」(作詞:斎藤茂吉)であるが、両曲とも戦前の楽曲に比べると知名度は低く「海ゆかば」や「海道東征」を称賛する右派勢力からは「つまらない曲」と酷評されてもいる。1965年8月1日、心筋梗塞のため逝去。享年79(満77歳没)。

 

「兵庫県民歌」の他に山口県の新旧2代の県民歌(1940年の「山口県民歌」と現在の「山口県民の歌」)を作曲しており、兵庫県との関連では現行(2代目)の神戸市歌加古川市歌旧山崎町町歌を作曲している。

信時 潔(のぶとき きよし, 1887-1965)

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