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 官選第32代/民選初代兵庫県知事。京都府出身。

 

 旧制第三高等学校を経て京都帝国大学法科を卒業し、高等文官試験に合格したが官僚への道を進まず大阪商船(商船三井の前身)に入社。系列企業の大阪海上火災(三井住友海上の前身)で神戸・東京支店長を務めた後、日本電力へ移り営業部長となった。

 1946年、前任者の斎藤亮(1898-1952)が公職追放処分を受けた後任として民間から官選第32代兵庫県知事に任命され、県下の戦後復興に当たる。11月3日に日本国憲法が公布され、その記念事業の一環として『兵庫県民歌』の制定を提唱した。

 1947年3月14日付で第1回兵庫県知事選挙に出馬するため一旦辞職し、当選して民選初代知事に返り咲くまでの1ヶ月弱は遠藤直人(1898-1986)が官選最後の知事を務めた。

 

岸田幸雄(きしだ さちお, 1893-1987)

 5月8日、当時は県庁舎(現在の県公館)近くの花隈にあった親和高等女学校の講堂で自ら制定した『兵庫県民歌』の発表音楽会を開催し、席上で「県民歌制定の意義と普及を願うあいさつ」を行った。

 

 1948年4月10日、岸田は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の方針に基づいて文部省が発令した朝鮮学校閉鎖令に基づき灘と東神戸の朝鮮学校2校を封鎖するよう命じるが、24日に命令の撤回を要求するデモ隊の一部が暴徒化して県庁舎に乱入し知事室に監禁される。軍政部は当日の夜に非常事態宣言を発令して県庁舎へ突撃し、岸田を救出すると共に監禁下で強要された封鎖命令撤回などの宣誓を無効とする声明を発表した。後に「阪神教育事件」もしくは「阪神教育闘争」と呼ばれるこの事件の処理は(自身は保守系であったにも関わらず)保革双方から非難を浴び、今なお岸田県政における重大な汚点と評されている。

 

 1951年の第2回知事選では辛くも再選されるが、1954年に副知事の吉川覚(1906-1978)が「県庁内で大規模な裏金作りが行われている」として神戸地方検察庁に告発し、叛旗を翻す。岸田は吉川の告発は事実無根であるとして吉川を罷免したが、吉川は逆に岸田は監督責任を取って自発的に辞任すべきであると記者会見で表明し“県政の爆弾児”と評された。

 ところが、吉川の告発は岸田が後継の知事に自身を指名するものだとの期待に反して副知事職の減員を打診されたことを逆恨みしてのものだったことが明らかになり告発は取り下げられる。県議会の与党会派は岸田派と吉川派に分裂して麻痺状態となっていたが、吉川の軽挙妄動が明るみに出たことで有利とみた岸田は任期を半年弱残して出直し知事選を行うことを決断し、11月5日に知事を辞職した。

 岸田・吉川の両陣営とも分裂選挙で足並みが乱れたままの中、前尼崎市長の阪本勝が社会党推薦で出馬して台風の目となり、12月12日の投開票では阪本が岸田と吉川に大差を付けて当選する。阪本の当選によって兵庫県政史上初にして現在まで唯一の革新県政が樹立され、保守陣営は阪本県政で副知事を務めた金井元彦(1903-1991)の2期目(1期目は中道右派路線)まで不毛な政争の遺恨を引きずる大きな疲弊状態が続くことになった。

 

 知事の座を追われた後は電源開発副総裁を務めていたが、1959年に成田一郎(官選第28代兵庫県知事)の死去に伴い自民党公認で参議院議員補欠選挙に出馬して当選。1967年、第2次佐藤第1次改造内閣で大蔵政務次官に就任するが翌年の参院選で自民党が公認候補を2名擁立してまたも共倒れとなり落選、政界引退を表明する。

 晩年は同和火災(あいおいニッセイ同和損保の前身)相談役などを務めていたが、1987年10月16日に腎不全のため死去。享年95(満94歳没)。11月10日に県立文化体育館で県民葬が行われたが、葬送に際して演奏されたのは母校である旧制第三高校の寮歌として歌い継がれて来た『琵琶湖周航の歌』であり、在任中に制定した『兵庫県民歌』が顧みられることは無かった。

 

 岸田は官選1期・民選2期と3期にわたり知事を務めたにも関わらず、阪神教育事件や吉川との政争など知事在任中の不祥事が目立つことが(特に“文人知事”として絶大な人気を博した後任の阪本との対比で)県政の影を落としている。そうした事情からか今日では歴代の民選知事の中でも岸田に関しては在任中の業績について顧みられることがほとんど無く、それが岸田の制定した『兵庫県民歌』の存在が県から頑なに否定される背景にある可能性は否定し難い。

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