top of page

忘れ去られた兵庫県民歌 うたかたの民主主義欧歌

“歴史の変化”に流される 選者さえオクラの理由わからぬ

 

 交響詩「兵庫賛歌」が発表された。そのかげで兵庫県民歌は忘れ去られたまま、今は思い出す人もない。平和と民主主義をうたった県民歌の生誕は、いかにも花やかであったが、短命にすぎた。戦後史の断片のひとつといえようか。

 

(後略)

 

(出典)神戸新聞・19711115日付夕刊6

【解説】この記事に関しては著作権が存続しているため、記事の冒頭部分のみを引用した。県が『兵庫県民歌』の制定事実そのものを全面的に否定するようになってから初めて、かつ唯一の記事だがその論調は「復興県民歌」の存在自体が戦後の徒花だったと結論付け「戦後民主主義の絶頂に生まれ、その変節とともに命を終えた」「復興のツチ音が聞こえるこの歌が、今の世相にそぐわないのは事実」と非常に辛辣な評価を下すものになっている。

 記事中で審査委員を務めた富田砕花「なぜか、放りっぱなしになっちゃって…」と悔しさをにじませるコメントが拾われている点は貴重だが、記事の冒頭で「兵庫県民歌は、県の記録にすらなくなっていた」と強調されており、既に(県の文書管理規定で公文書の保管期限とされる30年を経過していない段階から)人為的な“抹消”が行われた形跡をうかがわせる。県側の反応として、当時の県民課長だった菱川文博(1925-)の「もう使えない。歴史的な存在だ」とするコメントも掲載されているが、これすらも県側が既に“抹消”されていた『兵庫県民歌』の存在を神戸新聞側から指摘されて渋々ながら発したものであるように読める。

 

 ここで同時期の他県の状況を見ると『兵庫県民歌』よりも1年早く「復興県民歌」の先陣を切って制定された宮城県の2代目『輝く郷土』が長らく“亡失”扱いされていた時期と一致する。しかしながら、この『輝く郷土』は1980年代、恐らくは2001年(平成13年)の国体開催地に選ばれて以降の準備の過程で県により制定の事実が再確認されたようである。

『輝く郷土』の場合、恐らく196070年代には飽くまで「戦後復興のキャンペーンソング」とみなされ「今の世相にそぐわない」と言う評価を下されていたのだろう。1980年代に入り、制定が再確認されて以降も県議会では「歌詞の内容が大時代的で陳腐化している」と3代目の県民歌制定を求める質問が何度か行われた。ところが、2011年(平成23年)の東日本大震災発生後「戦後復興に向けた決意を歌う歌詞の内容が現状にマッチする」と言う理由で一転して再評価されるようになっている。

 

県民歌に思いを乗せて(河北新報、2011425日付夕刊)

宮城県民歌ってご存じですか?(東北放送RADIO CAR2011910日)

 

 それに『兵庫県民歌』の翌1948年(昭和23年)に制定された『鹿児島県民の歌』も『兵庫県民歌』と同様に歌詞で「憲法」を前面に掲げている『新潟県民歌』も「復興のツチ音が聞こえる」ことに変わりは無い。とは言え、両曲とも(県内で幅広く認知されているかどうかは別にして)現在も歌われている実情を考えると、制定からの社会情勢の変化と「歴史に思いを致す」ことは必ずしも矛盾はしていないのではないかと考えられる。無論のこと「新県民歌制定」を支持する意見が多数であればその手段も検討されて然るべきだが、この記事は当時も現在と変わらずその前段階にすら至っていない県の不可解な姿勢を再認識させるものであった。

bottom of page