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人物五線譜 尼崎・七松小長 野口 猛

白秋ばりの歌人 ||||||||||||||苦労の割に明るい |||||||||||||||

“進みつつある者のみが人をよく導くという言葉がありますネ。私はあの言葉が好きで、子どもとともに伸びていく研究意欲にあふれた学校にしたいんです”これが尼崎市西北郊に新設された七松校の野口猛校長の抱負。

七松校は生徒数五百で新発足するとはいうものの新校舎のできるのは六、七月頃、それまでは近くの水堂校に居候だ。

“合い住いですが、子どもや先生方にはできるだけ伸々とやってもらおうと思っています”それだけよけいに校長としては気苦労も多かろう。

野口さんは尋卒の十二才から四十八才の今日まで苦労と努力の連続といってよい。大阪の玉出第二小学校を卒業と同時に、電球製作所をふり出しに、造船所の使走り、木管工場の見習、新聞配達など年少の頃から筋肉労働のかたわら、当時尾崎行雄氏の主宰していた大日本国民中学会の講義録を片手に独学をつづけ、二十才前後には、天王寺西門前にあった米人経営の大阪英語学校の夜学に通って、昭和三年、二十三才で検定に合格した努力そのものの経歴の持ち主。

資格をえてからは兵庫県下で小・中学校(国語と英語)の教職にあること二十五年に及んでいる。

“昭和十年頃、池田師範の附属小学校に中尾明磨先生という方がおられて、生活綴方の研究会がひらかれていました。私もこれに参加して「赤い鳥」に子どもの作品などを送ったりしていました。「多摩(原文ママ)」を通じて北原白秋先生に短歌のご指導をうけだしたのもその頃のことです”

昭和二十三(原文ママ)年、兵庫県々民歌の募集に応じて見事に一席で入選したが、その時の選者富田砕花氏が、歌詞を読んだだけで、“白秋さんのお弟子ですね”とずばりいってのけたのは、野口さんへの白秋への影響の深さを示していよう。

今回の校長への新任は、主席になって一年半という点からみると抜テキであり、野口さんの巾広く奥深い識見の点からみると逆に、遅きに失するともいえる。髪の白さと広い額のしわは過去の辛苦の跡を物語っているが、苦労人にありがちな暗さはみじんもなく、温容な眼ざしは春の光の暖かさをたたえている。

薔薇の木に薔薇の花咲くあら愛(かな)し何の不思議も思ほえねども 白秋

 

(出典)教育タイムス・1954414日付1

 

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